会長声明 「日本学術会議新会員候補6人の任命拒否について」

政府による学術会議会員候補の任命拒否 の 撤回をもとめる


日本科学史学会 会長 木本忠昭
2020 年 10 月 11 日


 日本学術会議第 25 期の発足に当たって政府は日本学術会議が選出した会員候補 のうち6人の任命を拒否した。日本学術会議法に則って科学者の識見にもとづいて選出した候補を政治的立場から拒否する今回の措置は、法や日本国憲法第 23 条に規定された学問の自由を蹂躙する行為であり、到底容認できないものである。直ちに6人を任命するよう求める。
 日本学術会議は、 戦前の学術研究会議、帝国学士院、日本学術振興会を再編して1949年に内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立された 。
 その設立根拠を示す日本学術会議法 前文には、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とすることが謳われている。
 これは、 敗戦の荒廃から平和国家の再建という課題を前にした科学者達が、1930 年代の天皇機関説事件 や滝川事件のような戦前の軍事国家権力による 言論の自由や学問の弾圧、あるいは毒ガスや生物兵器の開発、人体実験、 殺人光線や原爆の研究、国民総武装兵器の開発研究等々、 軍が大学に出入りし強引に科学者を軍事目的の研究に動員して非人道的な研究に向かわせた戦前の 体制、戦争への 協力を強く反省したことに 基づくものであった。 そして 、 この平和と人類社会の福祉に貢献するという前文の理念は 、1950 年と 67 年の軍事目的のための科学研究を行わない 声明にまとめられた。 2017 年には、防衛省が 15 年に安全保障技術研究推進制度を導入したのに対して、これらの声明を継承することが表明された 。
 他方 、 その設立目的である科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映することについては、 京大基礎物理学研究所など多くの研究所やセンターの設立を提言し、共同利用研究体制の基礎をつくってきたほか、 基礎研究の充実や総合性、多様性の確保への努力や科学技術基本計画に向けての提言を重ねてきた 。わが国の原子力研究における国の基本姿勢となった民主・自主・公開の 3 原則の提言は、戦前の学術体制を反省し、国民生活に科学の成果を反映させる という 基本姿勢に由来するものであった。
 国際的にも、国を代表する機関として 国際科学会議( ICSU 。2017 年、国際社会科学評議会 ISSC と統合し 、国際学術会議 ISC 。)をはじめ、多くの科学分野での国外科学組織に 加盟、世界の学界と提携して、わが国の科学研究の向上を図るなど、 わが国における科学・技術のあり方や振興において大きな貢献をしてきた。
 行政的指揮機構からの独立性は、 歴史の反省と、科学と社会との当然の関係から、設立 当初から謳われてきたものであるが、 提言の中には、時として政府施策に批判的なこともあったことは自然でもあった。これに対し 、政府は、 批判的な意見や姿勢への不満を積もらせ、1983 年には日本学術会議法を一部改正するなどで学術会議の力を削ぎ 、他方では 内閣総理大臣の諮問機関として 科学技術会議を設置して科学技術政策に関する諮問機関の役割を果たさせるようにした。2004年の法改正は、学者の総意を結集する「学者の国会」的性格をさらに 変質させたが、 それでも独立性の保持により科学者間のコミュニケーションを深め、科学発展と成果の利用に必要な客観性、批判性と総合性に立った活動を展開、 2008年以降300 以上の、多くの提言をしてきた。
 科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映(法2条)するという、日本学術会議の社会的機能をさらに強化するためには、その独立性を高め、また民主的なコミュニケーション力を強める必要があろう。科学研究の進展状況と方法は多様であり、思考の自由と柔軟性、言論・思想の自由、科学者間の民主主義的な討論が特段にもとめられるからである。
 未知の問題に立ち向かう科学研究や科学的措置に関しては様々な意見があり、科学的成果に関する評価も様々であり得る。そのうちの一部を時の政権が恣意的に排除するならば、多様な意見を交えることによって現行社会のもつ科学的能力の最善を発揮し、必要な結論に到達するという科学的プロセスをねじ曲げてしまうことになる。科学的成果の国民的福祉への貢献方法や可能性についても多様であり、科学的立場からの総合的な判断がもとめられるが、ここにおいても、また科学の成果公開や、言論や研究姿勢の自由と独立的判断、学問内容の独立、そして民主主義的な協力体制が強くもとめられている。
 新型コロナウイルスの研究やウイルス対策にも未知の問題にあふれているが、政権の利害に合わないからといって政治的判断基準を導入して、一部の科学者を排除するならば、彼ら科学者に求められている中立的な科学的究明活動は阻害され、結局は国民の期待に添えないことになりかねない。政治的利害あるいは行政的立場からの判断基準は、科学者達の科学的判断基準と一致するとは限らないし、むしろ科学的判断を歪め、結局は科学成果の利用においても国民の利害にも反しかねない。日本原子力発電史での苦い経験、すなわち政治的経済的利害関係に巻き込まれて形成された、いわゆる「原子力ムラ」を基盤に一部の科学者の科学的知見を排除して「安全神話」を展開したが、これが、3.11福島第一原発事故としてどれほどの被害をもたらすことになったかを、そして現在まだ故郷に帰れない多くの国民がいることを忘れることはできない。
 学術会議の会員の選出方法は、当初は公選制、1983年には学協会からの推薦制、そして2004年から今日のコ・オプテーション方式に変わった。その会員選考基準は、優れた研究または業績がある科学者であり、それぞれ選出方法には課題があったが、しかしいずれの場合においても行政という別次元からの人事介入は、特定の行政目的への迎合性という基準を科学に持ち込み、科学において最も大事な学問の自由、言論の自由を脅かし、それは研究の方法に影響し、科学者達の民主主義的な議論と姿勢、そして科学の自律的発展を損ない、結局は国民の利害を損ないかねない。
 今回の任命拒否は、「法に基づき適正な措置」「総合的、俯瞰的」な措置(菅首相)というが、拒否理由・拒否基準は示されていない。日本学術会議法とは別の選考基準があるとすれば、それは明示されなければ説得性をもちえず、むしろ日本学術会議法に反した政治的人事介入といわざるを得ないことになる。こうした政治的人事介入は、自主的で自由な学問的活動を妨害するものであるが、拒否理由の説明がないということは、結局は歴史的に比をみない野蛮な公文書破棄まで生んだ「忖度」政治を科学界にまで持ち込もうとする狙いを疑わせざるをえない。科学研究は未知への挑戦であるが、それは同時に科学者自らを含めての学問的社会的権威への挑戦でもある。学問の自由が抑圧され、「忖度」が蔓延するならば、社会的・学問的権力・権威に立ち向かい、未知を切り開く科学界における民主主義的で自由闊達な議論と進取の気風は阻害されかねない。そうなれば、長期的に見ても、未知に立ち向かう科学者の力を削ぎ、社会の「科学的能力」を損なうことに繋がり、国民の利益追求の力をも弱めかねない。
 今回の政府による措置はひとり日本学術会議にのみならずひろく科学界、国民生活にも害をもたらすものとして強く憂慮するもので、早急に任命拒否を撤回し、6人の任命をもとめるものである。
 なお、10月9日、菅首相は、日本学術会議が提出した105人の推薦リストは見ていない、見たのは(すでに6人が除外された)99人のリストである、と説明した。事実であるならば、「総合的、俯瞰的」判断をしたと言うこと自体が疑われ、公文書改竄の疑義さえ出てくる。日本学術会議会長の推薦文書提出から99人の任命決裁までのプロセスと、6人の拒否理由の正確な説明がもとめられる。