2024年3月2日に開催された日本科学史学会賞選考委員会および第4回全体委員会において、2023年度第18回日本科学史学会賞を以下のように決定しました(敬称略)。
◇日本科学史学会学術賞:1件
月澤美代子『ツベルクリン騒動―明治日本の医と情報』名古屋大学出版会, 2022年.
◇日本科学史学会論文賞:2件
平井正人「ジャック・ロルダと機械論対生気論史観」『科学史研究』60巻299号, 2021年, 218-233頁.
Riki KUDO, Newton’s Musical Symmetry Reconsidered, Historia Scientiarum, 32(1), 2022, pp.30-52. (工藤璃輝「ニュートンの音楽的対称性再考」)
◇日本科学史学会学術奨励賞:1件
坂本卓也「幕末維新期の蒸気船運用」(佛教大学博士論文, 2019年3月25日) ※主たる業績
◇日本科学史学会特別賞:3件
古川安…『津田梅子―科学への道、大学の夢』東京大学出版会, 2022年等を通じた科学史の普及および教育への貢献に対して
魚豊…『チ。-地球の運動について-』(第1集~第8集), 小学館, 2020~2022年による科学史の普及への貢献に対して
株式会社岩波書店…『科学史研究』の刊行等に対する本会への貢献に対して
なお、推薦件数と授賞件数は次の通りです。
学術賞:推薦2件、授賞1件
論文賞:推薦3件(和文誌2件、欧文誌1件、技術史0件、生物学史0件)
学術奨励賞:推薦1件、授賞1件
授賞式は、2024年度総会・第71回年会の懇親会にて行いました。
日本科学史学会学術賞 1件
<授賞対象作品>
月澤美代子『ツベルクリン騒動―明治日本の医と情報』名古屋大学出版会、2022年.
<授賞理由>
ツベルクリンは今日では結核菌感染の有無を調べる方法として用いられているが、ロベルト・コッホはこれを結核治療薬として開発した。1890年にその報告が発表されると、世界の人々が熱狂し、その情報を求めた。このような、ツベルクリンの結核治療効果に対する「過剰な期待感に満ちた集団的な動き」は日本でもみられた。
本書は、この明治期日本における「ツベルクリン騒動」について、詳細に分析した成果である。近代日本の医学史において、結核は最も重要なテーマの一つではあるが、ツベルクリン騒動については、これまで断片的にしか語られてこなかった。しかし、ツベルクリンは、医学のいくつかの領域はもちろん、生物学、化学、技術、倫理学などを巻き込む重要な現象である。特に、ツベルクリンを与えた被験者には死者のほうが多かったという結果は、治験の歴史として大きな意味を持つ。
本書の優れた点は何よりも、日本のツベルクリン騒動を緻密かつ詳細に描写している点である。医療情報誌6誌、官報や一般新聞7誌が本書の主たる分析対象であるが、特に医療情報誌については、それぞれの発行部数、編集者、記事のカテゴリーなど、情報媒体の特徴を示している。そのうえで、ツベルクリン関連の医療情報がどのような時期に、いかなる媒体で、どのように語られていたかが、同時期のドイツ語や英語の医学雑誌を対照しながら、詳細に提示されている。
例えば、次のようなことが挙げられる。ツベルクリンの情報自体は、ドイツで治療効果に疑問符がつくよりも前に、日本語医療情報誌でも紹介されていたが、ツベルクリンの現物が日本に入ってくるのは、その後である。現物の到着後、帝国大学病院と内務省東京衛生研究所において、ツベルクリンの効果検証実験が行われ、審査員のほとんどは治療効果を認めなかったが、審査員の一人であったユリウス・スクリバは、局所結核への有効性を主張し、これが内務省の見解に反映された。日本語医療情報誌には、治療薬としての期待感をもって国内外のツベルクリン関連情報が多数掲載されていたが、時間を経るにつれ否定的な情報の量が増えていき、やがてツベルクリンそのものの出現頻度が大幅に減っていく。このような方針転換には、医療情報誌間で時間差があり、帝大病院での実験に関わって関連する情報を多く得ていた編集者の関与する媒体ほど方針転換が早かった。
このような点を明らかにしたことは、医療情報誌の性格そのものを詳細に検討するという本書の分析方法によって可能となった。そしてこうした分析方法を用いたことで、本書は明治期日本の医療情報誌そのものの研究という側面を有することにもなり、こうした点からも本書の成果を評価することができる。
以上のように、本書は優れた医学史研究の成果であり、学術賞の受賞にふさわしいと考えられる。
日本科学史学会論文賞 2件
<授賞対象論文>
平井正人「ジャック・ロルダと機械論対生気論史観」『科学史研究』60巻299号, 2021年, 218-233頁.
<授賞理由>
19世紀初頭に勃発したパリ大学医学部とモンペリエ大学医学部の対立は、一方を「機械論」(mécanisme)、他方を「生気論」(vitalisme)としてラベリングした上で、その対立が遠い過去から現在に至るまで存続していたかのように記述する「機械論と生気論の対立の歴史」史観を生んだとされる。本論文は近年再検討されるようになったその史観の形成過程について、論争の当事者でもあったジャック・ロルダ(Jacues Lordat, 1773-1870)による三つのテクストを丁寧に分析することで解き明かそうとした研究である。それにより、当初は生命現象の「能動原理」(principes d’action)をめぐって意見対立があるとの素描的認識に留まっていたロルダが、生命を部分的要素に分解して分析的に捉えようとするパリの学者たちの学説を批判的に検討するうちに、生理学自体の歴史について、古代ギリシアのアリストテレス、プラトンから彼自身の生きた時代までを貫く二陣営の対立といった図式を当てはめるようになっていく様子が緻密に記述された。
本論文の学術的貢献としては、次の三点を述べることが出来る。第一に、それは手堅い文献調査の成果を含んでいる。分析のために選ばれたのは、『人間生理学の学び方についての助言』(1813)、『生理学講義』(1817)、『ロルダ教授の生理学講義』(1830)という三つの時期に相当するテクストだが、このうち『生理学講義』は筆者が現地のアーカイブ調査で入手した手稿史料であり、従来の研究では分析されたことがなかった。
第二に、対象となるロルダという人物の研究自体がまだ国内外ともに少ないため、研究対象として分析したこと自体に意義がある。特に日本では、「生気論」の著者として言及されることの多いポール・ジョゼフ・バルテズ等(ただし彼自身がvitalismeという語を用いた形跡はない)に比べると圧倒的にロルダの知名度は低い。国外には失語症研究に貢献した人物として認知神経科学史、心理学史等の文脈でロルダを扱う研究はあるが、その思想内容を書簡や未公刊資料なども用いて詳細に分析した論稿は多くはない。
第三に指摘できることとして、本論文の射程が単なるロルダという個人の歴史観・思想分析に留まらない広がりを有することである。著者は論文末尾でロルダが実は思想史上の重要人物、オーギュスト・コントと親密な関係にあったことを指摘した上で、ロルダの分析をもとに、コントの『実証哲学講義』における記述に新たな光をあてている。ただし、この箇所はあまりにも簡潔かつ唐突に現れるので、著者がこの後に行う予定の研究を暗示させる予告編のように見えてしまうことは否めない。それは論文の構成という観点からするといささか収まりが悪いのだが、読者の関心をそそる効果があると言えなくもない。
このように、その手法の堅実さ、試みの新奇性、そして今後を期待させる射程の広がりが示されているという三点をもって本論文は日本科学史学会論文賞の授与に値すると考える。
<授賞対象論文>
Riki KUDO, Newton’s Musical Symmetry Reconsidered, Historia Scientiarum, 32(1), 2022, pp.30-52. (工藤璃輝「ニュートンの音楽的対称性再考」)
<授賞理由>
本論文は、アイザック・ニュートン(1642-1727)の音楽研究について、対称性に注目して再考したものである。ニュートンの音楽研究については、1980年代に提唱された「新たなニュートン像」を契機に研究が進められてきた。そこでは、ニュートンが音楽研究において経験ではなくアプリオリな原理を重視したという、科学史家ペネロペ・グークの解釈が通説となってきた。このような通説に対してはこれまでにも批判的検討がなされてきたが、ニュートンが対称性という原理によって音階を決定していたという点については、十分な検討がなされてこなかった。本論文は、ニュートンが手稿の中で音楽を扱った部分を詳細に検討することによって、通説の問題点を指摘するとともに、より妥当な解釈を提唱している。
本論文が分析の対象としているのは、ニュートンが1665年ごろ書いたとされるCambridge University Library Add MS 4000 fol. 104v-113r, 137v-143r、および、Cambridge University Library Add MS 3958 fol. 31rである。手稿の分析によって著者は、(1) ニュートンの12半音は厳密には左右対称ではない、(2) 音程の平均律が完全な対称性をもつにもかかわらず、ニュートンは平均律よりも純正律を好んでいる、(3) 音程と音階の序列が対称的な基準に基づいていない、ことを見出している。つまり、ニュートンは音楽研究において対称性という原理をそれほど熱心に追及していたわけではなく、むしろ、感覚経験と純正律から出発して数学的演繹をおこなっていたのである。
このように、本論文は、手稿の綿密な検討を通じて通説を批判的に検討することによって、ニュートンの音楽研究に新たな光を当てようとしている。本論文はニュートンの音楽研究を突破口として、ニュートンの数学研究やその科学史上の位置付け、さらには科学と音楽との関わりというさらに大きなテーマへの展開を期待させるものである。問題設定の妥当性、手法の適切性、今後の発展性といういずれの点においても、日本科学史学会論文賞に値するものと考えられる。
日本科学史学会学術奨励賞 1件
坂本卓也…「幕末維新期の蒸気船運用」(佛教大学博士論文、2019年3月25日) ※主たる業績
<授賞理由>
理系修士課程、文系の学部を経て日本史学に至ったという経歴をもつ坂本卓也氏は、これまで2013年に「幕末期芸州浅野家の軍備増強―蒸気船の導入を中心に」(鷹陵史学39)、2017年に「幕末維新期芸州浅野家における蒸気船運用」(日本歴史827)を発表し、2019年3月に受賞対象となる論文で博士(文学)を取得された。
本博士論文では、幕末の外国から蒸気船の購入・運用の実態研究の中で、幕府ではなく、芸州浅野家、加賀前田家、長州毛利家での購入および運用の実態を綿密な資料調査で明らかにしている。1853年6月のペリー来航後、幕府による洋船購入、大型船建造の解禁となり、また1862年の参勤交代緩和等の改革後からは、各藩でも洋船の購入・運用が始まった。1868年の明治維新に至るまでの10年余りで、幕府による蒸気船購入は29隻(帆船含め45隻)、各藩のそれは57隻(93隻)であった。幕府を上まわる、各藩の旺盛な蒸気船購入とその運用の事例として上記の三家に注目した点が本論文の特徴である。
技術史の分析に関わる興味深い論点は、蒸気船の「運用基盤」にある。これまでの帆船とはまったく異なる蒸気船は、蒸気機関の操作員の養成、燃料となる石炭の補給体制の構築が不可欠である。さらに購入した蒸気船の多くが中古船であったことから、頻繁な故障に対処する修理も大きな課題となった。こうした人員、石炭補給、機関修理などを、蒸気船の「運用基盤」として、三家がこの運用基盤にどのような困難を抱え、苦しみながら対処したかを明らかにしている。
明らかにされた一つには、人員養成では幕府の伝習所や操練所に依存した事例が多かったこと、また海水によって腐食した機関の修理作業には幕府下のオランダ人技師に頼る事例があったことだ。こうした導入期を経て、明治20年(1887年)頃には蒸気機関運転から外国人を除き、明治40年(1907年)頃には蒸気船の国産化に至るといわれている。こうした幕末での幕府、諸藩の試行錯誤の努力が、それまでの江戸時代の技術のどのように支えられたか、また、明治以降の技術の近代化にどのような影響を与えたのか、こうした課題の解明に少しずつ近づいているように思われる。
なお、本博士論文は、加筆・訂正が行われた上で、2022年3月に、『幕末維新期大名家における蒸気船の導入と運用』(佛教大学研究叢書45、清文堂出版)として刊行されている。
以上より、坂本卓也氏は、今回の日本科学史学会学術奨励賞にふさわしいと考える。
日本科学史学会特別賞 3件
古川安…『津田梅子―科学への道、大学の夢』東京大学出版会(2022) 等を通じた科学史の普及および教育への貢献に対して
<授賞理由>
古川安氏は、2022年1月に、明治の偉人津田梅子に関する著作『津田梅子―科学への道、大学の夢』東京大学出版会(2022)を出版し、先行研究や日米に存在する膨大な一次資料を駆使して津田梅子の二度目のアメリカ留学における生物学研究を分析し、その経験が後の日本における女子教育の基盤の一つとなったことを明らかにした。さらに科学史的観点だけでなく、ジェンダーの視点も取り入れて、日本近代に二つの文化を生きた女性の生きざまと、津田塾の歴史を描き出した。同書は科学史学会員だけでなく、さまざまな分野の研究者に読まれており、同年11月には、毎日出版文化賞(自然科学部門)を受賞した。また2024年発行の新紙幣に津田梅子のデザインが採用されるという相乗効果もあり、2024年1月25日にNHK(BS)ザ・プロファイラー(~夢と野望の人生~)「女性の可能性を切り開け!教育者津田梅子」が放映され、古川氏が出演し津田梅子の解説をするなど新聞やテレビなど多くの媒体で取り上げられたことは、時宜にかなうかたちで科学史の普及に貢献したと言える。
また科学史研究において化学史を専門としInventing Polymer Science: Staudinger, Carothers, and the Emergence of Macromolecular Chemistry, University of Pennsylvania Press (1998)や『化学者たちの京都学派―喜多源逸と日本の化学』京都大学学術出版会(2017)等、多くの研究を発表してきた。2018年にはイギリス化学史学会からモリス賞を受賞し、科学史家として国際的にも高い評価を得ており、その国際的視野を活かし2003年9月から2007年7月まで日本科学史学会欧文誌編集委員会委員長を務めた。また『科学の社会史—ルネサンスから20世紀まで-』南窓社(1989, 増訂版2000) は、2011年には中国語に翻訳され、2018年には文庫化されて多くの大学で教科書として用いられており、科学史教育とその普及にも大きく貢献している。
以上のことから古川氏は、日本科学史学会特別賞の受賞にふさわしいと考える。
魚豊…『チ。-地球の運動について-』(第1集~第8集)、小学館、2020~2022年による科学史の普及への貢献に対して
<授賞理由>
魚豊『チ。-地球の運動について-』(以下、『チ。』)は、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて、2020年から2022年まで連載されたものである。その後この連載は、全8巻の単行本として発行され、大きな話題となった。とりわけ、特筆すべき点は、その内容が地動説の発見と伝播をめぐる人々の動きと彼らへの宗教的弾圧のさまを描くものということで話題になり、『チ。』の発表によって、科学の歴史に関心がなかった読者にもその内容が訴えかけ、前近代の天文学への関心が高まったことである。
『チ。』の描く人々は架空の人々であり、決して実際の地動説成立史を描くものではない。しかし『チ。』では人々の地動説発見のモーメントが鮮やかに描き出されており、人々が新たなコスモロジーを獲得することで世界の見え方が変わるさまを漫画という媒体を使って伝えようとしているのは興味深い。いわば、『チ。』は、天文知と宗教というテーマを扱いつつ、人が新たな科学知の獲得によってどのような概念転換を起こすのかまでも射程に入れた作品だといえる。このようなテーマの重層構造が、前近代の天文学や科学の歴史に興味を持っていなかった層にも訴えたのではないかと考えられる。だからこそ『チ。』は前近代の科学というテーマにある意味でそぐわないほどのヒットを獲得し、そのテーマへの関心を逆に集めることに成功したといえる。
以上のように、『チ。』は天文学史のみならず科学の歴史への関心を高めることに大きな功績が認められることから、日本科学史学会特別賞にふさわしいと考えられる。
株式会社岩波書店… 『科学史研究』の刊行等に対する本会への貢献に対して
<授賞理由>
日本科学史学会の歴史は、岩波書店と深く関わりあってきた。1941年、社会的にも、思想的にも、また経済的にも厳しい状況のなかで、一縷の光を求めて日本科学史学会が設立された。この時、学術雑誌発行は誠に厳しいものがあったにもかかわらず、本学会の学術機関誌『科学史研究』の発行を引き受けていただいたことは、本学会の設立を支える大きな力となった。1941年12月の第1号から、以後、岩波書店による『科学史研究』の発行は、2013年冬の第52巻268号に至るまで長きにわたった。本学会が会員減少や財政危機に陥った戦後の厳しい時期にも、創立来の役員たちは、学会の生命というべき『科学史研究』の発行に露ほどの危惧の念を持たないほどの全幅の信頼を岩波書店に抱いていたといわれる。編集上でも古今東西にいたる諸言語、文理にわたる正確な印刷は学会内外の信頼を受けてきた。
日本科学史学会は、科学史や技術史、科学論技術論等の研究教育普及に携わっているが、岩波書店は戦前から本分野に関わる多くの出版物の刊行を通じて、社会・人類と科学・技術の問題に関わる問題に真摯に向き合ってきた。そもそも岩波書店の『科学』の編集員たちは日本科学史学会の設立を最も早く企画したことがあるという経緯もある。こうした出版活動は、社会的にも学問的にも高く評価されるものである。
日本科学史学会は、こうした岩波書店の出版活動に敬意を表するとともに謝意をもって日本科学史学会特別賞を授賞する。